源頼光らは大江山で酒呑童子を打ち、その首級を携え都へ凱旋しようとします。しかし、都の入口である老ノ坂で、道端の地蔵尊(子安地蔵)に「不浄なものを京に持ち込むな」と忠告されてしまいます。
すると、首は突然その場から動かなったため、やむなく埋蔵したと伝わる地です。酒呑童子は「我が死んだのちは、首から上の病を治す」と言い残したので大明神として祀られました。

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住所:京都市西京区大枝沓掛町

田歌の神楽は、毎年7月14日に行われる美山の田歌地区にある八坂神社の祭。豊作を祈願し奉納される芸能で、鬼、天狗、ひょっとこ、お多福、爺などが「かぐら」「さんぎり」「にぎまくら」の3曲を披露しながら行列します。鬼(やせ)の役だけは、少年2人が担当。鬼は道払いとわれ般若の面をつけ、太い青竹を引きながら歩くきます。「かぐら」では鬼と奴が太鼓をうちます。
近年は観光客に人気で、ツアーが組まれたり、海外からの取材されることも。

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住所:京都府南丹市美山町田歌

今から約千年前、摂津守・源頼光が帝の命で、当時の反逆の徒である大江山の鬼を討つために多くの部下を従え京の都を出発しました。
園部、須知へて和知庄の草尾峠にさしかかったところ、激しい雷雨にあい、途中で雨やどりをした神社がこの藤森神社です。雨があがり出陣時に村人たちが頼光の武運を祈願するとともに、士気を鼓舞するため打ち鳴らした太鼓が「和知太鼓」の発祥といわれ、実際に藤森神社には和知太鼓発祥の地であることを示す石碑があります。
また、世界を舞台に活躍する和太鼓集団『鼓童』の奏者・藤本吉利氏が和知の出身に因み、 神社には太鼓のバチが奉納されています。

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住所:京都府船井郡京丹波町広野25

舞鶴市と福井県高浜町にまたがる青葉山には、『大江山の3つの鬼伝説』の中でも最も古い鬼退治伝説が残っています。3世紀、第10代祟神天皇の時、舞鶴市の青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)、匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛がいて、若狭・丹後・丹波の周辺を支配し、人民を苦しめていました。そこで天皇は、弟である日子坐王(ひこいますのみこ)に鬼を討つよう命じます。

鬼の住処であった青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追った先の蟻道郷(福知山市大江町有路)で匹女を殺しました。この戦いであたり一面が血の原となったのでここを血原(千原)と呼ぶようになったといわれています。

その後、陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきたので、陸耳御笠は川をこえて逃げました。そこで、日子坐王の軍勢は楯をならべ川を守りました。これが楯原、川守(大江町河守)の地名の起こりです。

陸耳御笠は由良川を下流へ敗走。日子坐王は、この時川を下ってきた一艘の舟に乗り、陸耳御笠を追い由良港へきましたが見失ってしまいます。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを「石占」(宮津市石浦)と名付けられました。そして戦いの末、陸耳御笠はこの大江山で討伐されたのです。

- 鬼伝説と時代の権力者たち -

鬼や土蜘蛛退治の伝説は、権力者が勢力を持った先住民を征服した歴史の側面も伝えています。
大江山に3つもの鬼退治伝説が伝わるのは、丹後・丹波・但馬・若狭に朝廷と並ぶ大勢力があったからです。 大江町と舞鶴市はかつて加佐郡(笠郡)と呼ばれ、古代豪族笠氏が一帯を治めました。
この地では笠氏と刻印がある製塩土器や縄文時代の丸木船が出土しています。

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住所:舞鶴市

平安時代に丹後国守(都から派遣された役人)を務めた藤原保昌(やすまさ)は源頼光と酒呑童子の追討に向った屈強な武士の1人。古い伝説では、頼光と同等の立場で酒呑童子征伐の命を受け参加している。しかし、大江山追討の前年に、保昌の家来(清少納言兄)が頼光の弟・頼親の家来を殺害する事件が勃発。頼光も報復をしたことで二人はライバル関係になる。

藤原道長の勧めで歌人・和泉式部と結婚します。二人の逸話が祇園祭・保昌山のモチーフに。丹後守となった後、妻とともに任地に赴きます。ある時、頼光と同等の立場で酒呑童子征伐の命を受けこれに参加。しかし、保昌は頼光とライバル関係にあります。大江山追討の前年に、保昌の家来(清少納言兄)が頼光の弟・頼親の家来を殺害する事件が勃発し、頼光も報復をしています。道長の家司の座をめぐり熾烈な争いがあったとも推測されています。

- 丹後守保昌を偲ぶ保昌塚 -

保昌塚といわれてきたが、碑に奉納が元応2年(1320)とあり保昌の時代から300年もの開きがあります。丹後守として土地に馴染みこの名称がついたと推測されています。供養塔とも。

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住所:京都府宮津市文珠22-1

宇良(うら)神社とも呼ばれている浦嶋神社では、浦島太郎をまつっています。
おとぎ話の浦島太郎は実在の人物。『丹後国風土記』では伊根筒川村の日下部首の先祖・筒川嶋子、『日本書紀』雄略22年(478)には水江之浦嶋子とあり、竜宮城に行った記述があります。
また、嶋子一族(日下部氏)は、丹後を仕切った海の豪族だったといわれ、嶋子は伊根町本庄ヶ浜から竜宮城に行きました。
日本海三大古墳で最大規模の網野兆子山古墳をはじめ巨大古墳が集中する丹後半島には、製鉄と大陸交易で栄えた古代丹波(たには)王国があったとされています。繁栄を支えたのが、航海術に長けた海人族による大陸との交易と、製鉄遺跡や大江山のタタラ跡から製鉄といわれます。

嶋子を御祭神として祀る本庄の宇良神社は、天長2年(825)淳和天皇が海の豪族を称え、小野篁卿を勅使として創建されました。浦島大明神縁起絵巻や玉手箱が伝わっています。

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住所:京都府与謝郡伊根町本庄浜191

山陰海岸ジオパーク・京丹後町のランドマークである高さ20mもの巨大な「立岩」は、『大江山の3つの鬼伝説』で2番目に古い”麻呂子親王の鬼伝説”を伝える鬼スポット。用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟・麻呂子親王が、民を苦しめた3鬼・英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)を退治したときに最後まで抵抗した土熊をこの岩に封じこめたました。

- 岩に封じ込められた鬼 -

麻呂子親王は、討伐の途上で出会った白犬がつけていた明鏡で照らし、土熊の姿を見つけ退治したのですが、土熊は竹野郡まで逃れ討たれた、もしくは立岩に封じられたという説があります。

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住所:京都府京丹後市丹後町間人

丹後半島各地には、鬼が泊まる「鬼の宿」や節分の豆まきをしない地域が点在します。豆まきで追われた鬼が休憩し泊まる家といわれる久美浜町尉ヶ畑の安達家。網野町の下切畑では全戸が鬼の宿で「鬼の村」と称されました。弥栄町国久の田宮・富田、峰山町橋本では鬼に助けられたので豆まきをしない伝承があります。峰山町安の梅田家一族は「鬼のたばこ宿」といい、裏口をあけて鬼を迎えます。
また、「鬼の宿」がある網野町切畑、峰山町橋本、弥栄町国久などでは、節分の日に鍋輪と鍋つかみを田に捨てたり、外に出しておくと、「ヒャッカゲ」という妖怪が来て拾っていくという伝承があります。「ヒャッカゲ」は「百陰」からきた言葉で、鬼のようなものと認識されていたといわれています。誰も見たことがなく、イラストや絵図が残っていません。

鬼の宿やヒャッカゲの伝承がある網野町、峰山町、弥栄町を含む京丹後市辺りには、古代において大和政権に並ぶ勢力、丹後王国(丹波(たには)王国)がありました。日本海三大古墳(網野兆子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳)など集中する巨大古墳が強大な王権の存在を伝えます。
その繁栄を支えたのは、大陸との交易と製鉄です。久美浜湾、阿蘇海、離湖といった潟湖は、古代の良港たったといわれています。箱石浜遺跡から出土した大陸貨幣は対外交易に。古代から平安時代まで操業した大規模製鉄遺跡・遠所遺跡は製鉄の痕跡を伝えます。この王国は古墳時代の4~5世紀ぐらいに最盛期を迎えたましたが6世紀中頃に大和朝廷に併合され、和銅6年(713)に丹後国と丹波国に分国されます。

網野兆子山古墳の場所を確認する

住所:京都府京丹後市網野町網野188

丹後地方の古代史(古代丹波王国)の中心的人物・丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を祭神として祀ります。
道主命は大江山最古の鬼退治・陸耳御笠を討った日子坐王の息子で、四道将軍の1人。道主命所有の「国見の剣(くにみのつるぎ)」を神霊として祀るため太刀宮と称されます。また、国見の剣が「久美浜」の地名の起こりでもあるといわれます。

境内西側の山にある磐座は古代祭祀の跡であり、この磐座が『鬼滅の刃』主人公の炭治郎が修行の集大成で斬った巨石に似ていると話題になり、そのシーンを真似る観光客の急増を受け磐座保存会が結成されています。夏至の日、5m位の巨大な磐座の東西に割れた岩の間を日光がさすことから、農耕の時期を知ったといわれて、太陽信仰のスピリチュアルスポットとしても知られています。

神谷太刀宮神社の場所を確認する

住所:京都府京丹後市久美浜町1314

6世紀末の第31代用明天皇の頃、河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)という三鬼を首領とする悪鬼が集まり、庶民を苦しめていました。
天皇は、用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる「麻呂子親王」に討伐を命じます。命をうけた親王は、七仏薬師の法を修め、兵をひきいて征伐に向かいました。その途中、篠村のあたりで商人が死んだ馬を土中に埋めようとしているのを見て、親王が「この征伐利あらば馬必ず蘇るべし」と誓いをたて祈ると、たちまちこの馬は地中でいななき蘇りました。掘り出してみると俊足の竜馬でした(ここを名づけて馬堀といいます)。
親王はこの馬に乗り、生野の里を通り過ぎようとしたとき、老翁があらわれ、白い犬を献上しました。頭に明鏡をつけていたこの犬を、道案内として雲原村に至り、ここで自ら薬師像七躰を彫刻しました。この地を仏谷といいます。そして親王は鬼賊を征伐することができればこの国に七寺を建立し、この七仏を安置すると祈誓しました。

それから河守荘三上ヶ嶽の鬼の岩窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足の二鬼を討ちとりましたが、土熊を見失ってしまいます。そこで、さきの白犬の鏡で照らしたところ、土熊の姿がその鏡にうつり、無事に退治することができたのです。
鬼退治を終えた親王は、神徳の加護に感謝して天照大神の神殿を営み、そのかたわらに親王の宮殿を造営しました。鏡は三上ヶ嶽の麓に納めて犬鏡大明神と号しました。(かつて大虫神社の境内にあったといわれています。)

大虫神社の場所を確認する

住所:京都府与謝郡与謝野町温江字虫本1821

二瀬川渓谷には鬼が飛び下りた「鬼飛び岩」や対岸には飛び降りたときにできた「鬼の足跡」があります。そして、源頼光が鬼討伐に向う道中に休憩したといわれる「腰掛岩」も。二瀬川渓谷は映画やドラマなどのロケ地でも有名な景勝地であり、大江山の鬼達もここで酒盛りをしたかもしれませんね。

- 鬼の足跡 -

鬼飛び岩、鬼の足跡の場所を確認する

住所:京都府福知山市大江町佛性寺

頼光は都と大江山への中間地点ある岩屋山千手寺に参籠し、怨敵退散を祈願しました。その故事により武運長久を願う武士など多くの人々が参詣し祈りを捧げたといわれています。

岩屋山千手寺の場所を確認する

住所:京都府船井郡京丹波町妙楽寺太夫46

監修
世界鬼学会副会長/歴史作家 丘眞奈美

鬼伝説がつたえるもの

「化物とは読んで字の如く、人間が化けたもの・・だから悲哀がある」トーキー時代の怪優で、初代丹下左膳を演じた団徳麿が語っている。日本人が鬼に惹かれるのは、この一言にあり、アニメ『鬼滅の刃』の大ヒットはそれを根底に描いたからだろう。
源頼光らの騙し討ちにあい果てる前に、酒呑童子は「鬼神に横道なきものを(鬼は嘘偽りなど道を外れる事はしない)」と叫ぶ。この名セリフこそが“酒呑童子伝説”が、鬼の悲哀を伝える原点であることを物語っている。
江戸時代に描かれた『源頼道館土蜘作妖怪図』(歌川国芳)には、頼光の背後に土蜘蛛、四天王の背後に数多の魑魅魍魎が描かれている。これは天保の改革で苛政を強いた権力者への庶民の怒りを描いた痛烈な風刺画である。頼光は徳川家康、四天王は水野忠邦ら幕臣になぞらえられ、魑魅魍魎は苦しめられた庶民の叫びとされている。江戸期には権力者(源、徳川)に対する鬼・魑魅魍魎(庶民)の反骨精神が成熟し、“酒呑童子伝説”に仮託されてきたのではなかろうか。“酒呑童子伝説”は600年を経た今も色あせる事無く、『鬼滅の刃』の様な新たな鬼伝説に影響を与え、時代を超えて日本の鬼文化を伝えていくのである。

おか・まなみ

世界鬼学会副会長/(同)京都ジャーナリズム歴史文化研究所代表/歴史作家
出版社勤務後にNHK等キャスター、ディレクターを経て放送作家に。毎日放送『映像80’ともだち~宗谷岬発武庫川行き』で、文化庁芸術祭大賞を受賞。関西テレビ・京都チャンネル企画プロデューサー勤務を経て、番組・出版・文化事業等の企画制作会社を経営。歴史作家として執筆、講師、番組コメンテーターを務める。京都三山保全や京都遺産選定、観光など自治体委員会委員。
著書は『京都「魔界」巡礼』『京都奇才物語』『京都の御利益徹底ガイド』(PHP出版)『京おんなに学ぶ』(光村推古書院)など多数。近著に『日本の鬼図鑑』(共著、青幻社)

『京都「魔界」巡礼』丘眞奈美著(PHP研究所)
※現在電子書籍のみ発売中